秋の諏訪を往く〜諏訪市博物館、守矢史料館篇

実は諏訪大社上社本宮でおやきを食べたのは上社前宮より後だったというのが前回のオチ。上社本宮→上社前宮→上社本宮と二回も行ってたりするのでした。迷走にも程がある。

諏訪市博物館

上社本宮のすぐ近くにあります。



御柱の墓場ならぬ目処梃子の墓場と言ったところか。

博物館の敷地内道路側には足湯があったりする。上諏訪温泉、下諏訪温泉一帯から離れたところに足湯はあまりなかったりするので珍しい。


丁度、諏訪湖底に眠るという曽根遺跡という縄文時代の遺跡の展示をやっていたので見てきました。古代遺跡というフレーズには萌えるものがあります。どこに遺跡があったかというと、諏訪湖東側沿岸あたり、間欠泉センターのすぐ近く(3日目に行きました)だそうです。夥しい数の黒曜石の鏃が展示されていました。遺跡自体はもともと湖岸にあって、地盤沈下して水没したという説の他に、水上生活説などがあったそうですが、どうも前者の説が有力っぽいです。色々謎の多い遺跡とのこと。ちなみに発見されてから今年でジャスト100年になるそうで、今月一杯まで展示中。

大熊城跡

近くまで行ったのですが場所がよくわからなかったので諦めました。GoogleMapを印刷したものではやはり無理がある。

神長官守矢史料館

今回の諏訪探索の一番の目玉です。諏訪に来たならばここと高島城は是非訪問すべき。



何か民家っぽいです。というか右手にあるのは正真正銘民家です。といってもただの民家ではなくて、代々諏訪大社上社の神長官を勤めてきた守矢家の家(多分)。



守矢家の敷地内にあるっぽい藤森神社。



入口はこんな感じなので、一瞬躊躇してしまった。まあ気軽に入って良いみたいです。



入ってすぐ左に祈祷殿があります。



史料館全景。東大の藤森照信教授が設計したとかで、そっち目当てで訪れる人もいるのだとか。ん?藤森?さっきの藤森神社とは関係あるのだろうか…。

史料館自体は第78代神長官・守矢早苗氏が茅野市の寄託を受けて設立されたものだそう。神長官職は明治時代に廃止されているそうですが。史料館の説明文書(パワポで作られた資料がファイルに綴じられて見られるようになっている)によると、かつてこの地方には土着の神(洩矢神)がいたものの、出雲からやってきた建御名方神に敗北し(この時洩矢神は鉄の輪で、建御名方神は藤の蔓で戦ったといわれる)、建御名方神の子孫(諏訪氏)が諏訪大社の大祝(おおはふり)として、洩矢神の子孫(守矢氏)が諏訪大社の神長官としてこの地方を支配していたということ。諏訪大社では大祝と神主は現人神とされていたという。諏訪家は宗教的にのみならず強大な武力も有しており、中世戦国時代に諏訪頼重武田信玄に破れるまで支配が続いたらしい(祭祀を司る大祝家は存続していた。武力を司っていた総領家は後に再興)。頼重の娘(諏訪御料人と呼ぶのが一般的らしい)は武田信玄の側室となり、息子の武田勝頼(「頼」の字は諏訪氏より来ている)は武田家最期の頭首となった。
と話がかなり長いので、何か買える資料があれば買おうかなと思っていたのですが、結局買いませんでした。ぶっちゃけあのパワポの資料が欲しかったのですが、売り物ではないようだったので…。
内部の展示品は武田氏関連の文書やら儀式の供え物のレプリカ(ウサギやら鹿の首やら多数)などなど。次回諏訪に来たときも是非来たいところではあります。
ちなみに入館は100円。リーズナブルにも程がある。駐車場もありますので車で来てもOK。


で、敷地内にある神社なのですが。「みさく神境内社叢」。みさく神とか御左口神とかミシャグチ神とかミシャグジさまとか延々と続く恐怖の緑色交差弾幕とか色々呼び方はあるそうですが、土着の神であるミシャグチ神の神社です。恐ろしく古くから伝わる信仰らしいのですが、ミシャグチ神自体は精霊のようなものだそうです。御柱はミシャグチ神が降臨するための依代という話もあるようですが。



御柱



敷地内の小型神社。御柱完備。


相本社

前宮から守矢史料館に向かっている間に、ふと発見。道路からだと埋まっている形になるので、変な感じがする。何となく自転車を降りて入ってみる。



ここにも御柱が。祭神はイザナギイザナミだそうですが。



裏に三の御柱、四の御柱を確認したのですが、神社正面あたりに蜂が大量に居たのに気付かなかったので、入るのは平気だった癖に出られなくなってしまいました。ぎゃーす。



裏から脱出して無事帰還。御柱の写真はFotolifeをどうぞ。


北斗神社

守矢史料館と上社本宮の間にありました。上まで登る元気と時間がなさそうだったので断念。



この時点で13時半ぐらいでしたが、何故「時間がなさそうだったか」については次回。